ティエリ・グルンステン『線が顔になるとき――バンドデシネとグラフィックアート』(古永真一訳、人文書院)
原正人 (2008/09/17)
フランスのバンド・デシネ研究の第一人者 Thierry Groensteen(本訳書にならって以下グルンステンと表記します)の最初の日本語訳が出版されました。
作者のグルンステンは1957年ベルギー生まれの研究者で、1988年から2001年まで、毎年1月末に行なわれる国際マンガ・フェスティヴァルで有名なアングレーム市の le Centre national de la bande dessineée et et de l’image (CNBDI/国立マンガおよび映像センター)の館長を務め、その一方で精力的に執筆活動を続けてきた人です。今現在も研究の第一線で活躍しています。
バンド・デシネ研究と書きましたが、一般にはフランス語圏のマンガを指すバンド・デシネに限定してしまうより、より広くマンガ研究と言った方が誤解がないかもしれません(ここでは「マンガ」という言葉を日本マンガやアメリカン・コミックス、バンド・デシネなど様々なマンガ表現の上位概念として用いることにします ((この提案は野田謙介さんによるものです (『ユリイカ』2008年6月号「特集:マンガ批評の新展開」))) )。彼にはL’univers des mangas, une introduction à la BD japonaise(『mangaの世界――日本マンガへの招待』) ((1991年 Casterman (カステルマン)刊。1996年に新装版が出ています。)) という本やGeorge Herriman (ジョージ・ヘリマン)などアメリカン・コミックスの作家を紹介した著作もあり、その関心は広義のマンガに開かれています。
グルンステンはとりわけ1999年の著作 Systéme de la bande dessinée (『マンガのシステム』) ((Presses Universitaires de France (プレス・ユニヴェルシテール・ド・フランス)刊)) でよく知られており、この本については笠間直穂子さん ((笠間さんには『ふらんす』2007年4~9月号で「モノクロBDを撃て!」という連載があり、こちらも必読!)) の「漫画のメカニズムを叙述する」(『マンガ研究』vol.2, 2002年)と野田謙介さん ((野田さんは『pen』2007年8月15日号で「『Manga』の原点を探して、世界のコミック大研究」という特集を組んでいます)) の「コマ割りは『何を』割っているのか――翻訳者のノート」(『ユリイカ』2008年6月号)が その概要を伝えてくれています。その『マンガのシステム』も近い将来、野田さんの翻訳によって日本語で読めるということで、ようやくフランスのマンガ学が私たちの目の前にその姿を現わすことになりそうです。
さて、『線が顔になるとき』と題された本書は、原題を Lignes de vie : le visage dessiné と言います。直訳すると「命ある線――描かれた顔」といったところでしょうか。邦題は、本書の中核にあるマンガの描線と顔に対する関心を伝え、さらにはそれらを通じてなされるマンガの登場人物の成立を示唆している点で、非常に良いタイトルだと思います。
タイトルに記されているように、この本の主題はマンガに描かれた顔にあるとひとまずは考えてよさそうです。そこには当然、「顔」はマンガにとって避けて通ることができない問題だという認識があります。私たちを取り巻く無数の顔、それらはまず、マンガに限らず様々な表現活動にとって尽きせぬ創造の源泉としてある。しかし、マンガにとって「顔」が持つ意味はこれだけではありません。マンガ家は作品を描くに当たって、読者が同一人物であると同定できるように、同じ顔を何百回となく描かねばならず、また、複数のキャラクターを描き分け、そこに感情を与えなければならない。そして、そのようにして登場人物に生命を吹き込むのは、マンガ家の手の働き以外の何者でもないのです。
現在のマンガにおいても重要なこの問題は、グルンステンによれば、既に19世紀前半スイスで活躍した Rodolphe Töpffer (ロドルフ・テプフェール)の問題でもあったようです。「テプフェールは(恒常的なものである)性格や(一時的なものである)表情を描くことは、マンガという芸術の原理そのものだということを直感的に把握して、この事実を理論化しようと」(『線が顔になるとき』p.69)していました。そこで彼が着目したのが観相学という学問です。
観相学という学問をご存知でしょうか? 古代ギリシアから連綿と続く人間の内面と外面の間に照応を見る学問で、ある人間がある動物に似ているからその人物はその動物と同じ性格を有するという極端な発想まで含まれます。この観相学は19世紀の文芸に大きな影響を与え、後にはそれが通俗化されるのですが、その流行を作ったのが、18世紀後半に活躍したスイスの牧師ヨーハン・カスパール・ラファーターでした。ゲーテが執筆に協力したことでも知られている彼の主著『観相学断片』(1775~1778年)は、19世紀前半に出た仏訳を通じて、バルザック、ドーミエ、グランヴィル、ボードレールなど多くの芸術家に参照されることになります。その当たりの事情については、ジュディス・ウェクスラー『人間喜劇――19世紀パリの観相学とカリカチュア』(高山宏訳、ありな書房、1987年)や鹿島茂『人獣戯画の美術史』(ポーラ文化研究所、2001年)に詳しいのですが、とりあえず19世紀の圧倒的な物量、情報の増大の只中において、観相学が混沌に秩序を与える「調停のコード」(『人間喜劇』に寄せられたリチャード・セネットの序文「身振りのアート」p.12)として機能していたこと、さらに観相学が、外見から「人の性格をコード解読するための手引き」として用いられる一方で、人間の所作を「コード化」(『人間喜劇』p.243)する働きを有していたことの二点をおさえておきたいところです。そして、大局的にはテプフェールの観相学に対する関心もこうした流行の一端に位置づけることができそうです。
さて、グルンステンによると、テプフェールは観相学の外見から内面を推し量る有り様を学問的にはいかがわしいものだと考えつつも、任意の線によって描かれた人物像に特定の性格を与える仕組みとして、上に引いた言葉で言えば「コード化」するために、言わば観相学をその当時の慣用とは逆転した形で用いました。
(……)あらゆる人の顔は、考えうるかぎり下手に、子供が描くように描かれていても、線が引かれたという事実さえあれば、明確に規定された何らかの表情が必然的に現れる。
(『線が顔になるとき』p.106。テプフェール『観相学試論』からの引用)
描かれた顔は必然的に表情を持ってしまうというこの特性は美術史家のエルンスト・ゴンブリッチによって「テプフェールの法則」と名づけられています。しかも、テプフェールは、顔の各部位のヴァリエーションを組み合わせることによって、様々な性格、表情を描くことができると考えていたらしい。有限の記号表現を操作することで、無限の表現が可能であるという発想があったということになります。これはまるで手塚治虫じゃないか! 実際、グルンステンは手塚の有名な顔の描き方の図版を引いて、手塚をテプフェールの系譜に位置づけています。
どうやら観相学という知はマンガの発生に大きく関わっているらしい。観相学を美術理論に持ち込んだシャルル・ルブランの絵画にはコマ割りなどという発想はありませんでしたが、そこには強い物語性が感じられます(『線が顔になるとき』p.95)。彼はとりわけ目と眉毛の表現が内面描写に役立つと考えており、その意味で後のマンガ表現の先駆をなしています。絵画とも文学とも異なるマンガという新しい表象体系がいかに誕生したのか、これは非常に興味深い問題ですが、この問題については特に仮説が提示されているわけでもありません。おそらくは今後の課題ということになるのでしょう。
ここまで述べてきたことが観相学の創造的な側面であるとすれば、一方で観相学にはネガティヴな側面もあり、それについてもこの本できちんと論じられています。グルンステンによれば、「キャラクターの視覚的な造形化は、マンガ家の側からすると邪気のない作業とはいえ」ません。描かれた顔は「表現対象の内奥の自我だけでなく、作者の考えやシンパシーや偏見も露わに」(p.73)してしまうのです。
この他にも見るべき箇所は多くありますが、とりわけ日本のマンガとの関わりで言えば、キャラクターの内面の問題が挙げられるでしょう。例えば、さらりと述べられる次のような発言。
すでに述べたように、デッサンは「肉」の存在を忘れさせるといわれている。マンガは、その発展形を模索する何人かのマンガ家(ノー、マットッティ、アラグベ……)を除けば、内面よりは身振りを描く芸術として存在感を発揮してきた。おそらくこの二つの理由から、マンガは写真や映画のイメージとは「存在感」という領域では競争できないといわれてきたのである。
(『線が顔になるとき』p.121)
テプフェールにキャラクターの性格や表情をいかに描くかという関心があったことは既に見ました。その関心はその後、十分に引き継がれなかったのか、その辺りのことは詳しくはわかりませんが、日本のマンガがキャラクターの自意識や内面を読者に感じさせるほどには、海外のマンガはそういったものを感じさせはしないと、少なくとも一般に考えられていることがうかがわれます。読者のリテラシーの問題もあるでしょうが、海外のマンガと日本のマンガを比較するに当たって、参考になる観測ではあります。なお、日本マンガにおける「顔」の問題については吉村和真さんの「<似顔絵>の成立とまんが――顔を見ているのは誰か」(ジャクリーヌ・ベルント編『マン美研――マンガの美/学的な次元への接近』醍醐書房、2002年)という論文があり、『線が顔になるとき』との関わりで言えば、とりわけ第三節が参考になります。
『線が顔になるとき』を紹介するに当たって、いささか観相学に対する関心を強調しすぎたかもしれません。ただ、すぐ上で見たように日本のマンガと海外のマンガを比較するための視座を提示してくれる部分もあるし、また今まで日本ではあまり知られていない海外の作家を発見する愉しみを与えてくれる部分もあります(とりわけホセ・ムニョスの魅力的な図版が目を惹きます)。巻末に付された略伝は、ジェラール・ブランシャールの『劇画の歴史』(河出書房新社、1974年)とは異なり、作者名、タイトルなどの原綴も記されているので、資料的な価値もあります。その意味では、一読して若干難しいという印象を与えかねませんが、格好の海外マンガ入門書でもあるのではないでしょうか。この本が日本のマンガ論とフランスのマンガ論をつなぐきっかけになることを願ってやみません。