ジョアン・スファール 『星の王子さま』

大西愛子 (2009/04/09)

Joann Sfar, Le Petit Prince, Gallimard.
ジョアン・スファール 『星の王子さま』 ガリマール

2008年秋に刊行された、日本でも人気の高いサン=テグジュペリ(A. de Saint-Exupéry)の不朽の名作『星の王子さま』のバンド・デシネ版。

BD版作者はジョアン・スファール(Joann Sfar)。スファールはフランスの若手BD作家で、多くの作品を L’Association から出している。フランスではユダヤ系のルーツが垣間見える風刺の効いた Le Chat du Rabbin が人気だが、日本では『プチバンピ
』という子供の吸血鬼を主人公にした作品が翻訳されている。

このBD版『星の王子さま』は、サン=テグジュペリの原作の文章をほぼ忠実に使い、同じ物語が描かれている。

あらすじ

飛行機の故障でサハラ砂漠に不時着した語り手のパイロットは不思議な少年と出会う。少年は語り手に羊の絵を描いて欲しいと頼む。数日間ふたりで過ごすうちにこの少年が宇宙の彼方の小さな星から来たことが判明。その星にはとても傲慢な花がいて、少年はその花のわがままに手を焼いて星を飛び出してきたのだった。さまざまな星を訪問した後、彼は地球にたどり着いた。一年前のことだ。地球でも少年はさまざまな出会いをし、多くの発見をする。蛇との出会い。自分の星に一本しか存在しないと信じていた花と同じ花がいっぱい咲いていることを知ったときの衝撃。その後、狐と出会い、狐から「仲良く」することで、ほかの多くの似たものの中からたったひとつだけ自分にとって大事な存在になるものがある、と教えられ、自分の星の花は唯一無二の存在なのだと悟る。また狐からは「大切なものは目に見えない」という秘密も教えてもらう。

地球に着いてちょうど一年目の日、少年は語り手に別れを告げる。最初に出会った蛇に噛まれることで自分の星の戻ることができるという。少年はその言葉通り、蛇に噛まれ、倒れる。

しかし、少年の身体は消えてしまっていた。きっと無事、星に帰ったのだろう。

同じ物語でも、BD版を読んだとき感じるのは原作とは違うという違和感。それはどこから来るものなのだろうか。

原作の「童話」にはサン=テグジュペリ本人が描いた水彩画の挿絵がついている。それが星の王子様のイメージなのだが、どちらかというとパステル調で、やわらかい感じのする絵だ。スファールの絵の色使いはもっと原色に近い色使いで、はっきりとしている。そこがまずいちばんわかりやすい違いだろう。

また原作の王子さまは表情が乏しく、全体的に淡々としている。細面で、目も小さく、どちらかというと大人びた感じ。BD版の王子さまは丸顔で目は青く大きい。体系もお腹がぷっくりと膨らんだところなども描かれてまさに幼児体形。表情も豊かで、笑ったり、怒ったり、泣いたり、いらいらしたりと、くるくると変わる。むしろこちらのほうが現実の子供らしさが出ているかもしれない。その分原作の持つファンタジックな部分が薄くなっているような気がする。

原作の淡々とした絵のためか、実は悲劇的なことが描かれているのに、どこか幻想的で美しい物語として私には印象付けられた感がある。しかしBD版を読み、実はとてもドラマティックで悲しい結末だったことがはっきりとする。

漫画、BDというのはしばしば絵の力によって饒舌になりがちだ。文字でつづる小説の行間から想像しながら読むという行為をさまたげる。読者のイマジネーションを止めてしまうこともある。あるひとつの、つまり漫画家の解釈のみが前面に出るきらいがある。

この作品についても同様で、例を挙げると、小説版の絵が作者本人の目線から描かれたものであるため、題材、つまり王子様の姿や王子様の語る世界の絵が描かれているが、作者本人がどういう姿をしているか、また飛行機の機種など、まったく描かれていない。

語り手のパイロットがどのような人なのかは読者が想像するしかなかった。実は私はジェラール・フィリップ(Gérard Philipe)の朗読した『星の王子さま』を聞いたことがあるので、そのせいか、比較的若いハンサムなパイロットをイメージしていた。ところがスファール版では背景も、語り手も、飛行機もすべて登場する。で、その語り手はちょっと太目のおっさんなのだ。これには少し唖然とした。だいぶもとのイメージと違ったから。

また、原作には出てこないスファールのオリジナルの場面も登場する。それはおもに語り手と王子さまとの楽しい交流の場面だ。砂漠でふたりは子供のようにあそぶ。壊れた通信機を使って電話ごっこをしたり、語り手が王子様を抱き上げて「高い高い」をしたり。これはおそらく結末の悲しさをより際立たせるためだろう。

原作よりもよりページ数を割いていると思われるのがバラの場面と蛇の場面、そして点灯夫の場面だ。これらのエピソードに重点が置かれているのはこの物語の寓意が示されていたり、あるいはとても詩的な場面であったりするからだろう。あるいは単にスファールが好んだ箇所なのかもしれない。

21世紀ならではの宇宙の描き方もされている。王子様が星から星へと渡るシーンではさまざまな星の間に壊れた宇宙船や人工衛星などが浮かんでいる。サン=テクジュペリの時代にこういったものがまだ存在しなかったことを考えると少し愉快になる。

このようにスファールの「星の王子さま」は原作よりよりリアルな世界が繰り広げられているように思える。では、原作の持つ幻想的な雰囲気がまったく消えているかと言うと、ちゃんとそういう場面も用意されているのだ。

王子様が消えた後の話が3ページにわたって描かれている。飛行機を修理して、無事帰還したその6年後までのことが描かれている。パイロットとして空を飛んでいるシーン。サン=テクジュペリの別の作品「夜間飛行」を連想させるシーンだ。星の輝く中、王子様を思いながら飛ぶ語り手。夜空の中のこのシーンは孤独と静寂に満ちている。全体的に青い色使いのこのページからは語り手の寂しさがひしひしと感じられる。

そして原作の最後のページに当たる場面に大きな仕掛けがなされている。それは原作では「王子さまが消えた場所」となっているが、スファール版では王子様と語り手がであった場所になっている。

この本の5ページ目で語り手が砂漠で遭難して飛行機のそばで眠っていると、王子様が現れ、「羊の絵を描いて」と頼む。語り手はびっくりして起き上がり、目をこすって王子様を認める。

このページとまったく同じ絵が108ページに出てくる。しかし、台詞は全く無く、サイレントのページになっている。

次の109ページでは同じ構図で同じ背景の中にパイロットが同じように描かれているが、王子様がいない。そしてナレーションのように原作の最後の1ページの文章がつづられている。

そして最終ページの110ページは同じ構図、同じ背景の中、パイロットも姿を消している。あるのは砂漠の中の壊れた飛行機だけ。

この最後の誰もいないページを見ているとどこからか「お願い、羊の絵を描いて」という王子様の声が聞こえてくるような気がするから不思議だ。この最終ページからは原作の持つ幻想的な部分あるいは哲学的、形而上学的な部分が再現されているように思える。

最後に、どうしてもサン=テグジュペリのイメージと違うと思ってしまう読者のために、スファールはちゃんと答えを用意している。「サン=テグジュペリ自身が言っているが、彼は何度も王子さまの絵を描こうとして失敗した。ぜんぜん似ていない、と。本を読んで最初にわかるのは、サン=テグジュペリの描いた王子の絵は実物に似ていないということだ」と。

表紙を見て「ぜんぜん違う」と思ったひとには是非とも本を開いてスファールの世界を味わって欲しい。きっと、そこにはまったく別の星の王子さまの世界があるはずだから。

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